息栖神社から香取神宮までは下道でも十分なんだが、東関道潮来ICと佐原香取のICの料金所前のグルグルしたところが面白いので敢えて高速を使う。10km無いけど・・・。
たまにはコーナーを走らないと、ピレリ ディアブロ スーパーコルサがもったいない。路面温度も高そうだし♪
写真の通り、タイヤ端まで使えた♪あと、Hypermotard1100evo SPの赤いステップについてるヤツ削った。別に良いけど。限界高い割に、そっちこっち擦りやすいんだよ、ハイパーモタード・・・。796も1100evo SPも。
最初にお参りした息栖神社の 天鳥船命様が鹿島神宮の神様の道案内をされていた、てことと船の神様、運輸、交通の神様でもあるようなので、二輪で旅をする人間にはありがたい神様。
で、小江戸佐原には江戸時代後期に実在した、地図作成・測量士の神様、伊能忠敬さんゆかりの地なんだよな。交通関係で関係があるのでちょっと寄り道。
こちらは小野川のほとりの写真。この少し先に伊能忠敬さんの旧宅がある。古き良き日本の風景にイタリアンなバイク・・・。個人的には意外と似合ってると思うけど、この街並みにはW1かCD125Tあたりが一番似合うかな?
あら、ちゅうけいさん旧宅、
(ちゅうけいさん=ただたかさん。有職読み。だって舌かみそうなんだもの・・・。他に有職読みで有名なのは三蹟の小野道風をとうふう、って読んだり、藤原佐理/すけまさを、さりって読む読み方。)
改修中なんですね・・・。先の震災の影響かな?東北にばかり目が向くし、被害の状況見たら仕方が無いんだけど
「東日本大震災」
なわけで、茨城も千葉も被災地なんだよな・・・。もうすっかり忘れられてるけど。でも、放射能の影響の風評被害は忘れて欲しいから微妙な感じ。
忠敬さん旧宅前の樋橋(とよはし)から、カメラを構えてると水が勢いよく出てきた!こんな仕掛けがある事も知らず、最初は何があったか判らなかった・・・。
知らないから家に帰って調べたらwikipediaにも記事があるほど有名な橋だったのね・・・。
概要
樋橋は、もともと江戸時代に小野川上流でせき止めた農業用水を佐原の関戸方面(現佐原駅方面)の田に送るために小野川に架けられた大きな樋(とよ)であった。この樋から小野川に落ちる水の音からジャージャー橋と呼ばれるようになった。
その樋を人が渡るようになり、昭和時代にコンクリート橋、1992年(平成4年)に現在の橋となった。平成4年に橋を造る際に、かつてのジャージャー橋のイメージを再現するため、水が落ちるように造られた。
1996年(平成8年)に環境省の日本の音風景100選に選定された。
wikpedia 「樋橋」より。
この写真は小野川上流から樋橋を撮影。
こちら忠敬橋より少し離れた住宅地の中にある伊能忠敬さんの銅像。
伊能忠敬さんの概要は
1800年(寛政12年・この時御年56歳!)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした偉大な測量家。
1800年(寛政12年)、56歳の時に、第1次測量を開始。これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。幕府は、忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて全国に派遣させていたとされる。最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。宗谷付近については、当時、伊能がその弟子であった間宮林蔵に依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われた。ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。また、この際に地図投影に必要な地球の大きさを見積もるため、江戸深川から野辺地に至る路線の測量により、緯度1度に相当する子午線弧長がおよそ28里2分(110.7km程度)に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測した。この値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差であり、忠敬の測量の正確さの証左とも言える。
wikipedia 「伊能忠敬」参照。
実際、大日本沿海輿地全図は第二次大戦まで利用されていたので、約140年間は公式地図だったので、どれだけ偉大な功績かは想像を絶するモノがある。
・・・。正直言います。忠敬橋から銅像までたどり着くのにGPSを1回だけとは言え、使ってしまいました。銅像の忠敬さんにあきれられた気が・・・。