2013年10月31日木曜日

沖縄で利根川仕様シーバスタックルで魚釣ってみた。

 さ、釣りしよう!

 青く澄んだ空、澄んだ海、環境は最高だ!

 でも何が釣れるんだ??持ってきたタックルは
SEA HAWK 86-4L, CERTATE3012にPE0.6号にリーダー20LB。
ミノーはいつものタイドミノースリム120複数本、ドラドペンシルにTDソルトペンシル11F。ワーム系、ジグ系無し。

完全な利根川シーバス&キャット仕様。・・・通用するか?

 で、珊瑚が砕けた感じのサーフでひたすらミノーを投げて投げて投げまくる。イワシの類いが1匹スレてきた。と、言うことはそいつらを食う、何かが居るはずだ。
 で、タイドミノースリム120のリップ破損してディープダイバー仕様にして生き返らせたゾンビイワシ(・・・意味深。)投げ続けた。海が透明度高すぎて深さが読めない。

 ガツン、キューン!!なんだ?この魚??常州には居ないぞ?ヘッドランドみたいな石積みと砂浜の境から突き上げてきた。フルキャストして、150cm位潜るようにしていたから、どちらかというと底物だと思う。

 引き味は軽い割に走り回って楽しかった。
  それにしても自分が釣ってきた中では極めて人相、というか魚相が悪い。極悪の部類だと思う。

 この歯が凄い。サメと同じく一回口に入った獲物を逃さないように内側に向けて生えている。オーシャングリップも持ってきていて良かった。

 だが、どうにも名前もわからないし、食えるかが判らない。幾分困ってた所に地元の高校生がエギをもって来てなんか釣れた?って聞いてきたのでコイツを見せた。
「えそ」って魚らしく、群れになってるから1本出たら数が出るらしい。確かにこの前と後に1回ずつバイトがあったけど乗せきれなかった。

 食えるか聞いたら、唐揚げが美味いらしい。やった♪食える!ありがと、高校生。余り琉球語聞き取れなかったけど、「えそ」と、「唐揚げ美味いさー」はわかったよ!助かった!

で、意気揚々と帰る。遠征先で全く事前情報無し、利根川シーバスタックルで釣れたことが何より嬉しい。
 海のある全都道府県でルアー(出来ればミノー)で魚釣りたい、って漠然と思ってたけど、一番難しい(距離的にも、魚種的にも)沖縄で釣れたのが嬉しかった。

 お邪魔している所に自慢げに持って帰ると、沖縄の人はなんでも唐揚げにするよ。と言われて、どう食って良いか悩んだ末に、素直に塩焼きにしてみた。

 とっても美味しい♪

 どうやら小骨があるけど味は絶品、かまぼこになるお魚らしい。地元で言うとイシモチみたいな感じ?練り物にして絶品、塩焼きも美味しいってのは。
 
 ごちそうさまでした。美味しくいただきました。




2013年10月30日水曜日

沖縄観光もしてみた。

 戦争の史跡を巡った後、沖縄観光の定番、美ら海水族館行ってきた。戦争の史跡を先に行かないと、観光なんてしてる気分にならなかった。

 でも、昨日の夜とても楽しめたのでスッキリした気分で美ら海水族館を楽しめた。

 こちら、シンボルのジンベイザメ。とっても穏やかな、草食系のお顔。
こちらもシンボルのマンタ。

 なんか、やたら喧嘩してたけど、良いのかな?水槽でっかいけど、4畳半が3枚大暴れしてたの見てたら恐くなってきた・・・。

 しかも、ジンベイザメに比べて泳ぐの速い!!

 でも、水槽の中で自分の目が釘付けになったのはシマアジとかクロマグロ・・・。
美ら海水族館の後はオリオンビール工場見学。

 アサヒビールと提携していて、沖縄のスーパードライはオリオンビール工場で作られているらしい。ビールは余り詳しくないけど、何となく判った。

 歌であったよな、おじい自慢のオリオンビールって。沖縄の人に愛されてるんだろうな、オリオンビール。ビールあまり飲まない人間なりに言うと、薄口ですいすい飲みやすい。エビスの対極みたいな感じだった。
恩納村まで帰ってきて、沖縄一らしい、なかま食堂のソーキそば。ソーキってのは豚さんのあばら周りのことらしい。

 この写真で、普通盛り。麺は座礁してます。(笑)

 お肉はもう説明不要の大きさ。

 お味も美味しくいただけました。沖縄料理って全体的に「鰹節」と「豚肉」の二本軸みたい。

 美味しかったです。ごちそうさまでした。

 さ、これからは釣りだ、釣り!!

2013年10月29日火曜日

至福のひととき。

  糸満市からこの日にお邪魔する恩納村へ移動の際、レンタカーでイヴェント発生。水温計が10~11時を差していることに自分が気付いた。幸い、乗車の6名全員大型二輪乗り(但し空冷)、しかも1名、2,4輪整備士。メカには鈍くない。(ハズ。)とりあえずボンネットを開けてみると、エチレングリコール吹いた痕がある。コンビニに寄って水道水をガンガンブチ込む。Rタンク含め4.5L入った。エチレングリコールで無くても、沖縄だからおk!(凍らないし。)
 ・・・。今更ながら、ハイエースレジアスって空冷エンジンじゃないと思うんだ。
 なんくるないさ~♪ってノリ?レンタカー屋、
「ごじゃっぺ整備してっとひっぱたぐかんな!!」
 メカに弱い人が借りてたら多分廃車だよ・・・。あと、返却後水道水ブチ込んでるって伝えたから、LLCに詰め替えてね。錆びるから。後は知らん。
ハイエースレジアスに応急措置で水道水をしこたま飲ませてやったら、水温計もぴったり9時を差して安定したので一安心。 それにしても我ながら良く気付いた。で、レンタカー屋がクーラント交換したのがH21.05なんだよな。シール貼ってあった。よく商売してるな、って思う。出先の貴重な時間、金じゃ賠償できないのに・・・。
 2輪は多少整備するけど空冷エンジンしか乗ったとき無いから、最初はリザーバータンクにしか水入れなかったけど、ラジエーター側から圧力が掛かってリザーバータンク側に液が流れる、って初めて知った。まだまだ不勉強です。車は触らないので、整備士が居て助かった・・・。社長、ありがとうございます。

そんなこんな、イヴェントがあったけど、無事、恩納村に着きました。

 とっても綺麗な夕日、美しい砂浜、美味しい料理、美味しいお酒、久しぶりの再会、「空冷」ハイエースレジアスに乗った途中イヴェント、話が盛り上がる。

 ちょっと前まで、戦争の史跡を回って全員が気持ちが落ち込んでいたのが嘘のよう。でも、現地の方が言うにはやはり南部の海軍司令部壕、ひめゆりの塔、平和祈念公園などの戦争の史跡を回ると、いろいろと「つかれてしまう」人が多いので地元の方も行かないらしい。
 気持ち解ります・・・。自分も非常に「つかれやすい」体質なので。でも、「つかれやすい」なりの対応がここ最近出来るようになったのでこの日の晩に「つかれ」の対応、ケアはしておいた。皆さん、想像を絶する体験をされているようでした・・・。合掌。
 何度も繰り返すけど、沖縄で20万もの方々が戦没していることは絶対忘れてはならない。

 現地の方にとても美味しい沖縄そばを作っていただけた。実は前日那覇市内で飲み歩いた最後の締めで沖縄そばを食べたんだが、ぐうの音も出ないほど、口に合わなかった。
 例えるなら
「お湯入れて1分後のどん兵衛赤いきつね」味。
 なので、現地の方に作って頂いた沖縄そばが余りにも美味しくて感動した!で、糸満の海で拾った貝殻と一緒に写真撮影。

 !!?

 か、貝殻が動いたぁ!?
 
 !!貝殻だと思ったら、ヤドカリさんだった・・・。ごめん、誘拐してきちまった。

 すぐ、目の前のサーフに放してあげた。ハマヒルガオの中。珊瑚礁のところで拾ってきたので、砂浜で生きられるかが怪しいけど、海に帰せたから良かった。

 この日が人生で一番美しい景色での、そして楽しい夕飯だった。




2013年10月28日月曜日

沖縄の海でも釣りしてみた。

 いろいろ、戦争の史跡を巡って、気が重くなってしまった・・・。でも、気が重くなって当然だよな。沖縄戦では軍人・軍属、民間人含め20万人もの命が散っているんだもの。

 少し、リフレッシュしたくなって、平和祈念公園から少し離れた海岸に来てみた。この時間は思いっきり潮が引いていて、潮だまりに真っ青なスズメダイの仲間が取り残されていた。他にも何種類かの小魚が居た。それにしても、熱帯のお魚はなんでこんな色してるんだ?って魚が多い。綺麗なんだけど、食べられません。って雰囲気の魚が多すぎる。基本、釣ったら全部食べたいんで、鮮やかすぎる魚は恐い。・・・毒キノコなんかと一緒。派手なモノには毒がありそう。

・・・女の子もそんな感じ。(経験上)


あー・・・。強力なサイドオン。キャスト四苦八苦。しかもロッドは4ピース。飛距離がしんどすぎる。でも、折角沖縄の海に来たからにはなんか釣って帰りたい。
 
 出来れば鰺のでっかいヤツ。利根川GT出なくて、正真正銘、真の「GT」が釣りたい。釣りたいというか、食べたいってのが半分以上かな?あんなデカい鰺、関東では考えられない。それで、鰺のお刺身で腹一杯飯が食いたい。
 自分は沖縄料理が体質的にちょっと苦手。豚さん料理が多いんだけど、肉食は苦手。お酒は下戸。食に関しては苦手なモノがイスラム教の人と同じ。なので、でっかい鰺、刺身で食いたかったけど、ここからではちょっと厳しかった・・・。


 まあ、仕方ない。別の日に別の場所で妙な魚釣ったから、これはこれで後々。

2013年10月27日日曜日

平和祈念公園行ってみた。

概要

沖縄戦跡国定公園の広さは81.3km²(陸域31.27km²、海域50.03km²)。戦跡としては唯一の国定公園である。
1965年(昭和40年)、琉球政府立公園に指定され、1972年(昭和47年)の本土復帰に伴い、国定公園に指定された。
公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻する米軍から避難する一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥った。日本軍による組織的抵抗は、同年6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了したが、アメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けた。
 沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」としている。例年この日には、摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。・・・wikipedia 沖縄戦跡公園 より抜粋。

平和の礎

平和の礎は、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑である。1995年(平成7年)6月に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立された。海岸線を見渡す平和の広場に建てられた、屏風型の花崗岩に銘が刻まれる。現在も追加刻銘を受け付けており、刻銘者数は2009年(平成21年)6月21日時点で24万856人。・・・wikipedia 沖縄戦跡公園 より抜粋。

 参考までに、写真にある切り花、献花してきた。ひめゆりの塔も献花してきた。沖縄戦を生き抜いて来たであろう、おばあが花売りしていた。家族や友人を沢山失って、必死で生きて、自分で献花用の花を育て、自ら売り生計を立てる・・・。このおばあも戦争の被害者、人生を狂わされたんだろうな。ここは「平和祈念公園。」memorialな記念で無く、prayな、祈りの公園。平和、戦争犠牲者へ祈りを捧げずには居られない・・・。

 非戦闘員を巻き込む戦争は大嫌いだ。武士道の国に生まれた人間からすると、当事者同士、軍人同士で喧嘩しろ!!ってしみじみ思った。武士で言えば・・・。そうだな、高田馬場の決闘みたいに。

 そういや、公園から見える海が綺麗だ・・・。釣りしたくなってきた。そわそわ・・・。

2013年10月26日土曜日

ひめゆり平和祈念資料館見学してきた。

沖縄戦最大の悲劇、ひめゆり平和祈念資料館見学してきた。

  1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。

戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。
 最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。従って、第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)のみである。

 第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。
 戦後、戦死した生徒の親である金城和信らによって壕が発見される。その後、アメリカ軍によってこの地に住むことを命じられて住んでいた真和志村の人らによって遺骨が集められ、4月に慰霊碑が建てられた。・・・wikipedia 「ひめゆり平和祈念資料館」より。

 海軍司令部壕で大田司令官の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を見た後にここに来たら、戦局は違うとは言え、司令官の牛島中将との司令官の器の違いが悲しすぎた。誤解が無いように言いたいし、英霊に無礼なことを言う訳では無いが、非戦闘員、しかも女学生に対し司令官は先に自決して、後は自由にしろ。とは余りの仕打ちだ・・・。
 見学中、修学旅行生の高校生が最初は五月蠅く騒いでいたが、同年代の悲劇を見て、順路を少し進んだら高校生達も誰も口を開かなくなり、涙を流していた。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育されていたのは時代的に理解できる。ただ鐵の雨(砲弾・銃弾)の飛び交う最中、非戦闘員の女学生を放置とは、日本男児のする仕打ちでは無いと思う。

 ・・・玉砕された軍人、女学生など非戦闘員の皆様に対し、祈りを捧げずには居られない。と同時に、近隣の土産物店の余りに品のなく、場をわきまえない品揃えに怒りも覚えた。かつてここで何があったのか、考えてもらいたい。

2013年10月25日金曜日

首里城見学してきた





 首里城・守礼門も見てきた。ここは正直感想も何も、海軍司令部壕の悲劇の衝撃が大きく、感想も何も無かった・・・。詳しく知りたい方は
 wikipedia 「首里城」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%87%8C%E5%9F%8E
        「守礼門」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E7%A4%BC%E9%96%80
        をご参照下さい。


2013年10月24日木曜日

沖縄県海軍壕公園見学してきた。

 人生初、沖縄に行ってみた。空港から近く、最初に訪問したのは海軍司令部壕。内地に平穏無事に住んでいる自分は沖縄に行って直ぐ観光する気にはなれなかった。先人達の甚大な尊い犠牲の上に生きさせて頂いているので、敬意を表したかった。

 海軍司令部壕は旧日本海軍が小禄飛行場(現那覇空港)を守るのに設営した。海軍なのに、陸戦をせざるを得なくなって居る時点でもう希望が無い状況だったと思う。
 激戦必至の沖縄に配置された海軍第226設営隊の隊員の心情は計り知れない・・・。

 そんな英霊の皆様にご挨拶がしたかった。英霊の皆様に敬意を表すのは平穏無事に生きている人間の義務ですから。卑しい大陸や、当時日本の一部だったキチ○イの半島がどう言おうと知ったことでは無い。

 
戦況は絶望的、 昭和20年6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。大田司令官は6日夕方に辞世の句とともに訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜には「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中で壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵による突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
 11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられている。13日午前1時、大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。

 

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報電報の現代語訳

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

・・・wikipedia 「海軍司令部壕」「大田実」より抜粋。

 大田司令官の悲痛な電報を見たら涙が止まらない。日本海軍陸戦隊の壊滅状態には触れずに、非戦闘員の住民を慮った電報をうち、司令官含め軍幹部は無念の自決を遂げている。古き良き、武士道の鑑のような司令官だと思う。戦死した軍人、住民の安らかに眠られることを願わずには居られなかった。



2013年10月23日水曜日

富士山を上空から見てみた。

 富士山を上空から見てみた。

 人生初めて、日本一高い富士山を上空から拝見する。
 まだ雪化粧では無いけど雲の上にある富士山を眺めてると美しい・・・。と感心する。

 いったいどこに向かっているか・・・。と言うと、人生初の訪問場所に向かってる。
そして、高いところに行った時に気になるのは急激な気圧の変化。頸椎損傷をしていたり交通事故を食らった人間には苦痛となる、気圧774hPa。

 マジ、しんどい。ゲロ袋を使うか?って悩んだほど。結局何とか耐えられた。気圧の変化がツライので、飛行機乗る前に高いところが苦手です。と同行者に伝えていたんだけど、高所恐怖症かと思われていたみたい。

 ・・・。それはそれで苦手なんだけど、むち打ちや頸椎損傷系統の人間は体調にモロに影響するのが辛すぎる・・・。

 う゛ーん、早く着陸したいよう・・・。

2013年10月22日火曜日

Hypermotard 1100evo SP プラグ交換やっつけでやってみた。

とりあえず、今まで使っていたプラグを外さなきゃ始まらない。家に転がっていた安っぽいプラグレンチが使えたので、車載工具のヘキサレンチを無理矢理ブチ込んでひねり回す。

 ここで重要なのは何回転と何分の一を回したら取れたのかを把握しておくこと。なんでか?って言うと、 トルクレンチなんて高級品、一個人が持ってないから。3万もするんだぜ?年に1~2回しか使わないのに、そんな高級工具なんて持てる訳が無い。

 なので、汎用だか車載工具だかの安物を使って何回転と何分の一回したかを覚えておく必要がある。
あれ?純粋のDCPR8E,ヘッドの形状ちがくないか??

 手持ちのDCPR8E-N, ヘッドの形状が頭平らだぞ?

 気になってDCPR8Eも見たら変わらなかった。現行はヘッド端子平らで溝切っては無いみたい。
 そのためDCPR8Eを使うことにした。

 ここで今年の四月に出てきた、「ネバーシーズ」を持ち出す。

NGKのメーカーホームページにはプラグ据え付け時に耐熱潤滑剤を使わないでね。なんでかって言うと、トルクレンチ使ってて、滑りすぎて絞めすぎの可能性があるって事らしい。

 大丈夫。トルクレンチなんで高級な工具なんて無いから。手締め何回転と何分の一、出考えてるから、絞めすぎなんて無いよ。

 多分ね・・・。
こちら、使用済みの後ろ側プラグ。約8,000km走行して結構消耗したと思うけど、それほど焼けすぎでは無い。むしろ被り気味なくらい。

 前シリンダーに比べて後ろシリンダーは熱が逃げないから、熱価いじくった方が良いのかも知れないな・・・。

 前乗ってた883Rなんかもこんな傾向あったし。次回からは後ろの品番を7にでもしようかな???

2013年10月21日月曜日

Hypermotard 1100evo SP プラグ購入で混乱してみた。

 こちら、はやひで号こと、ハイパーモタード1100 evo SPのプラグ交換。なんか、余計なモノを購入しちまった・・・。純正は枝番の無い下側、DCPR8E。これを購入するのに一苦労。陸の孤島、地の果て、常州クソ田舎、オレンジ色の車用品店、黄色い車用品店、品揃え無し。黄色い方は熱価違いがあったけど、熱価7だった。所により一時、栃木県内の坂道で発狂したり、高速で良いペースで流すので、9は有りでも7では遠慮した・・・。

 「田舎、ちょーめんどくせー。」
消耗品お買い物すらままならない。で、アマゾンで適当にDCPR8E検索して頼んだつもりが、家に着いたら枝番くっついてた。はい、チェックミス。自分が悪い。返品も出来るけど、手間の方がイヤ。なので、ちょっと勉強がてら調べてみることにした。人間、失敗して初めて勉強するんだよな・・・。


 ノギスなどで精密に測った訳じゃないが、特に大きさは変わってなさそう。となると、枝番の違いか・・・。
 で、頼りになるのはメーカーHP。以下、NGKのプラグの選び方-品番説明。
http://www.ngk-sparkplugs.jp/products/sparkplugs/basic/03_01.html

 ふーん。勉強になった。枝番-Nは外側電極特殊仕様か。じゃあ、多分使えるな。形状違いじゃないならまあいいや。

 で、DCPR8E-Nってマイナーな品番、プントって車が該当するみたい。余り聞かないな、どこの車だ?面倒な品番作りやがって。なんでふつーなことが出来ないんだ・・・?ん、フィアット・・・?

イタリアか・・・。

2013年10月20日日曜日

立志式

にゃ。

 とらのすけにゃ。

 ちょっと前に人間で言うと14歳になったにゃ。立志式にゃ。毎日暴れて、飼い主を困らせる立派な飼い猫になるにゃ♪
 先日、近所からサンマを調達して飼い主にプレゼントしたにゃ。そうしたら主、急いでお総菜を買いに行ったにゃ??買わなくても良いように調達してやったのに何なのにゃ??しばらくしてサンマの焼けるニオイがしてるおうちにコロッケと鰺フライ持って行ったにゃ?お返しかにゃ?

 どうやら、とらのすけは「ドロボウ」をしてしまったようにゃ・・・。主、平謝りしてたら大笑いで許してもらえたにゃ。人間界の掟は難しいのにゃ・・・。14歳だから少年法で許してもらえると有りがたいにゃ。

2013年10月19日土曜日

自分もアメリカナマズ食ってみることにした。

 なんだかとらのすけがとっても美味しそうにキャット(=catfish)食ってるのを見て、もしかすると、本当に美味いのでは?と真剣に思い出した。

 居ても立っても居られなくなって、ナマズ食いたくなってきた。でも、ニッポンナマズなんて利根川水系では絶滅危惧種だし、市内でナマズ料理食べようと思ったらとんでもなく高価・・・。

 じゃあ、もう一回釣ってくるか?となるけど、利根川まで行くのがめんどくさい。さーて、どうするかな?

 ふと思ったのは道の駅でナマズが食べられたような気がするな。と。調べてみたら道の駅たまつくりでご当地グルメとして
「行方バーガー」の一種で、「なめパックン」の名前で売り出されてるらしい。

 よっしゃ、行ってくるか!

で、程なく道の駅たまつくりに到着。一番霞ヶ浦寄りの建物で売ってるらしい。写真は売り場の上に貼ってあったポスター。

こちら、ドリンクとセットで¥580。霞ヶ浦をバックに、手すりの赤とんぼさんと一緒に記念撮影。

 厳密に言えば、道の駅たまつくりに隣接した「行方市観光物産館こいこい」って場所らしい。ま、細けえこたあいいんだよ。この物産館、結構人気なのか、夕方に行ったら結構欠品が目立ってた。産直も何も、農家さん直売だから新鮮だよな。

 次に行ってみたときはゆっくり見てみよう。
ほい。
 半分かじってみた。味は・・・。
「美味いんですけど!!」
 
 タイヘン失礼いたしました。泥臭さ、一切なし。霞ヶ浦で養殖されたアメリカナマズのカマ肉(胸びれの付いている部分)を中心に玉葱と蓮根を加えたパティを使用。天然物とは違い、養殖ナマズには生臭さがない。タルタルソースと1振りのチリソースで味付けする。ほか、わさび菜・レタス・きゅうり・トマトをサンドしている。
 ・・・wikipedia「行方バーガー」より。


 
某アメリカのジャンクフードは足下にも及ばず、モスバーガー系の味。注文を受けてから作るので、待ち時間長めも同じ。

 すいません、アメリカナマズなめてました・・・。これ、立派な食材だと思う。ただ、天然物が食えるかはひじょーに怪しい。泥臭い利根川・霞水系で底棲魚はどう考えても臭い。でも、泥を吐かせるために生きたままの運搬は特定外来生物の法律で禁止されてる。うーん、難しい。

 これは虫の息状態で釣り場から運搬、キャットが死んだらとらのすけのご飯、なんかの手違いで生きてたら泥吐かせて食ってみるかな?
でも霞ヶ浦のアメリカナマズはセシウム含有で出荷制限だ・・・。
http://www.pref.ibaraki.jp/nourin/gyosei/pdf_housyanou_kensakekka/20131009.pdf H25.10.01現在の茨城県漁政課のデータ。

 千葉も茨城も県境の利根川産の水産物、調べないんだよね。お互い知らんぷり。行政、公務員なんてこんなもんだろな。

2013年10月18日金曜日

Cat eats cat(fish)

にゃ。

 とらのすけにゃ。

 ヒゲ魚、とらのすけに生意気な口を利いたので折檻してやるのにゃ。そりゃ!!とらのすけ、左フックがフィニッシュブローにゃ。主や主母をよく左フック一閃で懲らしめてやるにゃ。但し、主は主、敬意を表しツメなしのフワフワピンクの肉球パンチにゃ。

 このヒゲ魚にはツメ全開にゃ!!

 エラ近辺にしっかり刺さった写真を主がしっかり写真に撮ったのにゃ!

あぐっ♪

 左フック4連打で手前に寄せて、一気に噛み付き、トロ箱から引き釣り出してやったにゃ。

 そうそう、今日の題名、「共食い」に掛けてるのにゃ。
 英文では共食いはdog eat dogなのにゃ。

 Catなとらのすけが、ナマズ(Catfish)食べるのにゃ♪
 主には「白身魚が食べたいにゃ!」って伝えてたので、やっともらえたのにゃ♪この際スズキやヒラメで無くともまあいいにゃ。安いデブ猫用カリカリばかりでは楽しみが無いのにゃ。


 あぐあぐ・・・。

 水の中から引きずり出したらこっちのモノにゃ。

 主はトロ箱の水を減らしてとらのすけの手伝いを使用としてたけど、問題ないにゃ。

 こんなヒゲ魚、とらのすけがコテンパンにしてやるにゃ。
 お?

 スズメにゃ!!未だ食べたことの無い食材にゃ!!ヒゲ魚ぶん投げっぱなしでおk!
 とりあえず、スズメにゃ!!飛びかかるにゃ!!

 ・・・。主のビーチフラッグ張りのタックルでとらのすけ、敢えなく捕獲にゃ・・・。せっかくリードなしで自由になったと思ったのに、やっぱり自由にはさせてくれないのにゃ・・・。

 いずれ鳥も食べたいにゃ。
こちら、引っかき回され、ザラザラの舌でなめ回されたヒゲ魚にゃ。

 既に虫の息にゃ。目が飛んでるのにゃ・・・。

 いずれ食って供養するので、まあいいにゃ。
 はぐはぐ・・・。

 ペロペロ・・・。

 美味い・・・。のかにゃ??初めて食べるのでイマイチ美味いのか良く判らないにゃ。食い慣れたら美味いのかにゃ??

 実はヒゲ魚食べる前にカリカリしっかり食べたにゃ。そんなに食えない・・・。と思ったけど、初めての生魚、なかなか止められないにゃ。

 そうそう、鯛焼き頭から食べる派だったり、尾から食べはじめたり、みんなはどちらからなのにゃ??

 とらのすけ、ヒゲ魚食べるときはしっぽからにゃ。頭硬いにゃ・・・。
にゃ。凜々しい獲物を食べるアングルの写真にゃ。

 この後骨まで残さず食いきったにゃ♪完食した後、主に「骨と頭は残すんだよ・・・。」と言われたけど、もう遅いにゃ・・・。残さず食って、しっかり供養したにゃ。

2013年10月17日木曜日

Cat meets Catfish

 にゃ。

 とらのすけにゃ。

 主、昨日の晩に釣ったヒゲ魚、高級な白身魚と称して持ってきたにゃ。コイツ、やたら生命力溢れていて釣り上げて2時間ビニール袋に包んでおいても全然平気だったにゃ。
 生きてるなら、って事で、主が泥吐かせるつもりでトロ箱にブチ込んでいたら朝になったらけろっとしてたにゃ。
 どうやら死んだ魚を持ってきたつもりが、生命力溢れていて生きてたにゃ。生きたキャットフィッシュ持ち運んだら特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律で罰せられるにゃ。法律に要注意ながら、泥吐かせないと利根川の魚なんて食えないと思うにゃ・・・。

とらのすけ
「おはようにゃ。」

 Catfish
「Get "the f○ck" out of the here!!」
「くっせえヌルヌルぶつけんぞ!?」

 とらのすけ
「・・・。ここはとらのすけの家なのにゃ。出てけとは心外にゃ。一発ひっぱたいておく必要があるにゃ!」

 とらのすけ、我慢という言葉知らないにゃ。寝たいときに寝て、食べたいとき食べて、ひっぱたきたいときひっぱたいて、噛み付きたい時噛み付くにゃ。

 とらのすけの恐ろしさ、とくと思い知らせてやるにゃ!!