22にちのよる、さんぽからかえってきたおじさんはあかとらをみとったあまりのしょうげきによるねつくことができませんでした。ふとんのなかでぬくぬくとねているじぶんがきらいになっていました。あかとらはいまごろしもふるよぞらのした、つめたくなっている・・・。とおもうと、じぶんがふとんのなかでぬくぬくとねていることをせめずにはいられませんでした。
いまとなっては・・・。
「こうかいさきにたたず」ということばがあたまからはなれません。れいせいにかんがえたらおなじしないのどうぶつびょういんより、となりのしのどうぶつびょういんのほうがちかかったことをおもいだしたのです。しかも、まだいったことはないものの、さんぽこーすにかんばんがでていて、かんばんまであかとらをだきかかえていって、そこででんわをすればたすかったのかも?とおもえたのです。れいせいになれなかったせいであかとらをたすけられなかったかもしれない。とおもいだし、ますますねむれませんでした。おじさんはしゅようとたたかっているため、いきがきれるような、あせをかくようなうんどうをとめられていますが、ちかくのどうぶつびょういんまでのきょりをかんがえて、そこまでのかけっこのたいむをけいさんすると、いえにかえってくるまであかとらをたすけにいくよりよっぽどはやかったのです。
ふとんのなかでどうぶつびょういんのでんわばんごうをねっとでしらべておしえてくれたおねえさんに、じぶんのちからぶそく、はんだんりょくぶそくであかとらをすくえなかったことをほうこくしました。こんな、くやしいめーるをしたのははじめてですが、ちからになってくれたおれいをかねてめーるをしました。
すると、かつておねえさんにおじさんがした、「みっつのし」をおもいださせるめーるをもらいました。
「1つめはにくたいのし、2つめはこころのし、3つめはほんとうにさみしい、そんざいのし」
のはなしです。1つめはしんぞうがとまること、2つめはのうがしに、じんかくがなくなること、3つめはだれからもそんざいをわすれられることです。
おねえさんは3つめの「そんざいのし」はおねえさんとおじさんがいきているかぎりはふせぐことができる。このようなことを、めーるでこたえてくれました。じぶんがかつておねえさんにつたえたことばが、なんばいにもおもみをもってかえってきたのです。このことばがこころをおちつかせてくれました。
よくあさ、しやくしょにでんわして、あかとらがしずかによこたわっているばしょをつたえました。しやくしょであかとらのなきがらをひきとってくれるのです。からすにつつかれたりしないうちに、あかとらをひきとってもらえるようたのみました。ゆうがた、あかとらのよこたわっているばしょをさんぽしてみました。もう、あかとらはいませんでした。すくなくとも、このばしょをさんぽするかぎり、あかとらをわすれることはありません。
おじさんはいのちのおもさ・あたたかさをあらためてしりました。
ほしになったとらねこ
おわり。