2013年10月26日土曜日

ひめゆり平和祈念資料館見学してきた。

沖縄戦最大の悲劇、ひめゆり平和祈念資料館見学してきた。

  1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。

戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。
 最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。従って、第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)のみである。

 第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。
 戦後、戦死した生徒の親である金城和信らによって壕が発見される。その後、アメリカ軍によってこの地に住むことを命じられて住んでいた真和志村の人らによって遺骨が集められ、4月に慰霊碑が建てられた。・・・wikipedia 「ひめゆり平和祈念資料館」より。

 海軍司令部壕で大田司令官の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を見た後にここに来たら、戦局は違うとは言え、司令官の牛島中将との司令官の器の違いが悲しすぎた。誤解が無いように言いたいし、英霊に無礼なことを言う訳では無いが、非戦闘員、しかも女学生に対し司令官は先に自決して、後は自由にしろ。とは余りの仕打ちだ・・・。
 見学中、修学旅行生の高校生が最初は五月蠅く騒いでいたが、同年代の悲劇を見て、順路を少し進んだら高校生達も誰も口を開かなくなり、涙を流していた。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育されていたのは時代的に理解できる。ただ鐵の雨(砲弾・銃弾)の飛び交う最中、非戦闘員の女学生を放置とは、日本男児のする仕打ちでは無いと思う。

 ・・・玉砕された軍人、女学生など非戦闘員の皆様に対し、祈りを捧げずには居られない。と同時に、近隣の土産物店の余りに品のなく、場をわきまえない品揃えに怒りも覚えた。かつてここで何があったのか、考えてもらいたい。